



明治27年(1894)日英通商航海条約が締結され、明治32年(1899)7月17日午前10時、居留地返還式が執り行われ、現金を含む居留地会議財産とともに居留地は日本政府に返還されました。東遊園地や墓地、消防用具、ガス燈などが神戸市に引き継がれ、通りには海岸通、播磨町などの地名が新たにつけられました。当日の式典の中で、フランス領事ド・ルシイ・フォサリュウは「…(中略)…居留地の歴史はそのまま神戸の歴史を述べることになるでしょうし、神戸の歴史を抜きにして居留地の歴史も語れません」と挨拶したのです。
返還以後、大正時代から昭和初期にかけて、旧居留地には多くの日本人が入り込むようになり、ビジネスの中心地として発展を続けます。
特に大正3年(1914)に始まった第一次世界大戦では、世界的な船舶不足を背景に造船ラッシュとなり、港神戸は好景気にわき上がりました。さらに大正12年(1923)の関東大震災で横浜港が壊滅的な打撃を受けると、生糸を始めとする横浜の輸出入産品が神戸へ運ばれ、ますますの発展を遂げます。しかし居留地そのものは戦争の打撃によって外国商館が衰退し、新たに日本の海運会社や商社、銀行などが進出。いわゆる近代洋風建築の中層オフィスビルが次々と建てられていったのです。 |


|