旧居留地の歴史 History

1.開国と居留地のはじまり

〜居留地は、港から離れた砂地に誕生した〜

神戸は、繁栄した。
Hasegawa Sadanobu Jr. 画(1871?)
(神戸市立博物館所蔵)

日本の歴史は、江戸時代の終わりごろ、大きく変わりました。日本は、1858年に、諸外国と修好通商条約を締結しました。日本は、長年続いた鎖国政策を終わらせました。そして、日本は、横浜・長崎・函館・新潟・神戸の5つの港を外国に開きました。神戸外国人居留地の歴史は、この時から始まりました。

R.Alcock(初代駐日英国公使)は、長崎から帰る途中に、視察のために神戸に上陸しました。彼は、日本の役人に伝えています。この一帯は、外国人居留地として好適である。

しかし、当時の政情は、不安定でした。神戸は、横浜より約9年遅れ、1868年1月1日に開港することになりました。神戸外国人居留地は、当時の兵庫の市街地から、3.5km東に離れた所に、建設されました。その理由は、日本人と外国人との紛争を避けるためでした。そこは、当時、砂地と畑地であった神戸村でした。

2.居留地の建設

〜ヨーロッパの近代都市計画に倣い、美しい126区画の街が建設された〜

当時の居留地(Division STREET KOBE)
C.B.Bernard画(1878年)
(神戸市立博物館所蔵)

神戸港の開港とともに、居留地が建設されました。居留地は、外国人が住み、働く場所です。しかし、「神戸港の開港」には間に合いませんでした。1868年9月に、一部の土地が競売されました。

ヨーロッパの近代都市計画技術を使い、J.W.Hart(イギリス人土木技師)は、居留地を設計しました。格子状街路、街路樹、公園、街灯、下水道などが建設されました。敷地は、整然と、126区画に分割されました。この形状は、現在も変わっていません。

土地の永代借地権を取得した後、外国人たちは、すぐに商館の建設を始めました。最初に竣工したのはGutschow & Co.の倉庫(10番地)です。その後、居留地の土地は、1869年、1870年、1873年に次々に競売されました。126区画の土地は、4回の競売により、すべて売却されました。居留地は、数年をかけて完成しました。

当時の英字新聞“The Far East”は、「東洋における居留地として最も良く設計された美しい街である」と、神戸居留地を高く評価しました。15番館(Building No.15)は、明治初期の外国商館の姿を、現在に残しています。この建物は、1989年に国の重要文化財に指定されました。その後、その建物は、1995年の阪神・淡路大震災で倒壊しました。現在は復元されています。

3.居留地の運営

〜自治行政権〜

居留地時代の京町(Kyomachisuji-Avenue)
(神戸市立博物館所蔵)

当時の神戸外国人居留地は、東西に約500m、南北に約500mの狭い地域でした。東はIkuta River(現在のフラワーロード)、西は鯉川(Koikawa Street)、北は旧西国街道、南は海岸線でした。

「居留地会議」という組織が、居留地を運営しました。「居留地会議」の常任委員会(行事局)は、各国領事、兵庫県知事、登録外国人から選ばれた3名以内のメンバー、でした。道路、下水、街灯などを、「居留地会議」は建設し、管理しました。居留地運営の財源は、土地の借地権の競売から得られた収入と、毎年の土地税金(地租)でした。その他、「居留地会議」は、警察税を徴収しました。「居留地会議」は、警察隊を組織しました。その警察は、居留地内の犯罪を取り締まりました。その警察は、捕らえた犯罪者を、各国の領事に引き渡しました。各国の領事は、犯罪者を裁きました。

当時の神戸外国人居留地の特徴の一つは、この優秀な自治組織でした。「居留地会議」は、居留地返還までの長い間、自治行政権をうまく使いました。その一つの理由は、この地域の人口が少なかったことです。また、「居留地会議」は、諸外国人の意見を反映しやすく、利害を調整しました。さらに、例えばHermann M. Trotzigのように、有名で優秀なスタッフがいました。

4.居留地が返還された。その後の繁栄

〜日本政府が旧居留地を管理した。そして激動の時代。〜

返還の日の朝。38番地にある「居留地会議」のオフィス。
(神戸市文書館所蔵)

1894年の条約(日英通商航海条約)により、居留地返還が決まりました。1899年7月17日午前10時、居留地返還の式典が実施されました。諸外国は、居留地の権利と現金を含む財産を、日本政府に返還しました。神戸市は、東遊園地、墓地、消防用具、ガス燈などを、管理しました。海岸通(Kaigan-dori)、播磨町(Harima-machi)などの新しい地名が、つけられました。当日の式典の中で、フランス領事de Lucy Fossarieuは、次のように話しました。「居留地の歴史はそのまま神戸の歴史を述べることになるでしょう。神戸の歴史を語らなければ、居留地の歴史も語れません。」

返還以後、大正時代と昭和初期、旧居留地には多くの日本人が入り込むようになり、ビジネスの中心地として発展を続けました。

特に、1914年に始まった第一次世界大戦では、世界的な船舶不足を背景に造船ラッシュとなり、港神戸は好景気にわき上がりました。さらに、1923年の関東大震災で横浜港が壊滅的な打撃を受けました。横浜の輸出入産品、例えば生糸が、神戸へ運ばれました。神戸は、ますます発展しました。しかし居留地そのものは、戦争の打撃によって外国商館が衰退しました。日本の海運会社や商社、銀行などは、旧居留地に新たに進出しました。いわゆる近代洋風建築のオフィスビルが、次々と建てられました。

5.第二次世界大戦と戦後

〜戦争による打撃からの復旧。そして、新たな時代へ〜

旧居留地(1959年)

第二次世界大戦が始まると、神戸在留の外国人たちの活動は大きく後退しました。外国人の多くは、祖国へ追われました。さらに、1945年6月5日の神戸大空襲は、神戸の港や市街地を壊滅しました。旧居留地の建物は、126区画のうち約70%のが破壊されました。

戦後、戦災復興事業などが開始されました。しかし、当時の社会情勢の中、旧居留地の復興は、遅れました。1950年の朝鮮戦争によって日本の経済が活発化しました。そして、旧居留地内に、新しいビルが建ちました。

1960年代になり、日本は高度経済成長時代へ突入しました。神戸は、繁栄するようになりました。しかし、東京への本社機能の流出傾向が強まりました。旧居留地の地位は、相対的に下がりました。ビルの空室が、増えました。

しかし1980年頃から、旧居留地内に残されていた近代洋風建築物と歴史的景観が見直されました。これらを活用して、ブティックやカフェ、レストランが進出しました。オフィスも、再び増加しはじめました。1983年、旧居留地は、神戸市都市景観条例に基づく「都市景観形成地域」に指定されました。この頃から、旧居留地は、以前とは異なる趣が見られるようになりました。

6.「国際地区共助会」と「旧居留地連絡協議会」
(The Council of Former Foreign Settlement)

〜地域コミュニティの形成〜

第二次世界大戦中、旧居留地ビルオーナーは、空襲に備えて、自警団を形成していました。そして、彼らは、戦後、「国際地区共助会」を組織しました。当初の会員は約30社で、会員の親睦と福祉を目的に活動していました。当時を知る人が、話しています。月に1回、地区内のホテルに昼食時に集まって、カレーを、仲間と一緒に食べるのが楽しかった。

1983年、当地区は、神戸市都市景観条例の「都市景観形成地域」に指定されました。この機会に、「国際地区共助会」は、会員の増やし、運営体制を強化し、名称も変更しました。(旧居留地連絡協議会)。この組織の目的は、異なる業種でも親睦を図り、地区の環境を向上することです。会員それぞれのビジネス振興を目的にするものではありません。この組織の活動に、会員のビジネスを持ち込まないことにしています。会員は、現在に至るまで一貫して、この基本方針を確認しています。地区内で事業をする法人であることが、会員資格です。このため、「企業市民」による地域コミュニティが形成されました。これは、日本では稀なことです。

7.阪神・淡路大震災と復興

〜震災による被害を超えて、主体的なまちづくりが始まった〜

「15番館」(Building No.15)は、阪神・淡路大震災によって崩壊した。
(1998年4月に復元竣工)

1995年1月17日未明、阪神・淡路大震災が突如発生しました。旧居留地内にあった106のビルは、大小さまざまな被害を受け、うち22棟は解体を余儀なくされました。この中には、「15番館」も含まれていました。「15番館」は、居留地時代の唯一の建物であり(1880年ごろ完成)、国指定重要文化財です。「15番館」は、その後、免震構造で、復元されました。「海岸ビル」(Kaigan Bldg.)(1918年完成)、大興ビル(Daiko Bldg.)(1919完成)、明海ビル(Meikai Bldg.)(1921年完成)も解体されました。この3棟は、20世紀初期の近代洋風建築物でした。

その後、旧居留地では、周辺地域に比べ、再建は早く進みました。震災から8年が経過した2002年には、9割(20敷地)で再建が完了しました。さらに、震災とは直接関係のない、新しい大規模なビルやマンションがいくつも建設されました。その結果、地区内の建物の床面積は、震災前と比較してかなり増加しています。そして、飲食店やブティックなどの商業施設は、1階に、2階に、増えました。この地区の本来の機能(ビジネス機能)に加え、商業施設は一層の魅力を付加しています。また、歩道の拡幅、ベンチの設置など、歩行者を重視する整備が進められました。これらが、街のにぎわいを促進しています。

震災からの復興にあたって、近代洋風建築によって形作られていたかつての街並みの良さを継承することにしました、その後、安全・安心やユニバーサルデザインなどの視点も加えました。その結果、以前よりも、にぎわい、風格のある街が、形成されています。

※「旧居留地連絡協議会」(The Council of Former Foreign Settlement)の活動については、「旧居留地連絡協議会」ウェブサイトをご参照ください。(日本語だけ)

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